こんにちは〜。
今回は2024年に新紙幣が発行されたということで、新一万円の肖像になる渋沢栄一ってどんな人なのかをまとめてみました!!
この記事を読むと大体5分くらいで渋沢栄一が具体的に何をした偉人なのかが、ざっと分かるようになります!!
明日から友達や同僚などに語ってみてくださいね。笑
何した人なの?
さて早速ですが、一言でいうと渋沢栄一は、みずほ銀行や三菱UFJ銀行や三井住友銀行といった3大メガバンクを作った人であり、また保険分野では東京海上日動やニッセイ同和損害保険を作った、めちゃくちゃすごい人です!!
このため渋沢栄一は『近代日本経済の父』と呼ばれています。
このほか渋沢栄一は約500企業の設立に関わり、約600の社会公共団体・教育機関の支援をしたり幅広い社会事業に貢献しました。
一方で財閥を作ることはなく、こうしたことから社会に対して利他的な人物であったと考えます。
メガバンクの設立に関わった人ならお札の肖像に使われるのは納得の理由ですね!!
生い立ち
渋沢栄一は1840年に埼玉県の深谷市の農家の家に生まれました。
実家の農家は販売業も営んでおり裕福な家に生まれた渋沢は、幼い頃から父親の一郎右衞門や栄一の従兄弟のもとに通わせて、四書五経などを習い学問の手解きなどもを受け、学問に励みながら成長します。
そうして商才を磨き成長していき、20代になった渋沢は尊皇攘夷の考えを持つようになります。
尊王とは天皇を尊ぶ思想であり、攘夷とは外国人との貿易をやめて追い出そうとする思想のことです。
そしてこの思想によって、忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともにと運動を起こします。
この計画は残念ながら失敗してしまいますが、これをきっかけに徳川慶喜(一橋慶喜)に仕官するようになりました。
27歳の頃、一橋家で力をつけた渋沢は慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れ、商法会所を設立し、政府の大蔵省に仕官します。
渋沢は富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わりました。
大蔵省を辞めた後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創立、企業の設立に関わりました。
また日本初の銀行創業にあたり、資本家の三井高福と小野善助が協力するように説得を試み、なんとか第一国立銀行(現在みずほ銀行)の設立に成功しました。
どんな性格の人だったの?
ここからはそんな実業家の渋沢栄一がどんな性格をしていた人なのかを探っていきたいと思います!!
さてここまで渋沢栄一のすごいところばかり上げてきましたが、どんな性格の人だったのかを調べていったところ彼はかなりの女好きであったということです。笑
二人の妻以外にも複数の妾がおり、かなりの女好きだったようです。
また、渋沢が最後に残した子は68歳の時に生まれています。
彼がその生涯で残した子供の数はを100人ほどではないか(認知していない子を含みます)、という側面もありました。
フランスへ学びに行ったときには、現地の女性を愛人にするなど呆れるほどの女好きで、20人もの子供がいたと言われています。
商才がなかったら大変なことになっていましたね。笑
面白エピソード
渋沢は論語を、実業を行う上での基盤としていました。
資本主義社会では出世や金儲けに傾倒しすぎる傾向になりがちですが、これを論語に裏打ちされた商業道徳で律する。 というのが彼の思想でした。
こうした考え方は『論語と算盤』にまとめられており現代でもビジネスマンに読み継がれています。
ところで上のトピックからもわかるように渋沢はかなりの女好きであったことがわかります。
そんな渋沢の妻である渋沢兼子はそんな彼を伴侶として支えるのですが、やはり思うところはあったようで、
「大人(渋沢栄一のこと)も論語とはうまいものを見つけなさった。あれが聖書なら絶対守れなかったろうに」
という言葉を残しています。
少しふだけ解説すると、渋沢が基本に据えていた論語には性的な内容の道徳的な記述はなく、一方で聖書にはそうした記述がはっきりされているという違いがあったりします。笑
要するに、『論語を盾に遊びすぎでは?渋沢栄一さんよお〜。』と言いたかったのでしょうね。笑
まとめ
現在でも続いている誰もが目にしたことのある大企業の設立に多く関わっていた渋沢栄一ですが、女好きな側面や、人間らしいエピソードがたくさんありました。
今後は渋沢の肖像画を拝見する機会が多い人生を送れれば嬉しく思います。笑
本日は以上になります。
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