こんにちは〜!
新紙幣が発行されてから、少し経ちましたが、昨日初めて新しい一万円札を見ました!!
しぶさわ、、、なんでしたっけ?
渋沢栄一ですね!!
そう!その人!
渋沢栄一って、具体的に何をした人なのですか??
偉人なのはわかるのですが、どのような偉業をした人なのかが知りたいです!
それでは今回は、2024年に新紙幣が発行されたということで、新一万円の肖像の使われています『渋沢栄一』ってどんな人なのかをまとめていきましょう!!
この記事を読むと大体5分くらいで渋沢栄一が具体的に何をした偉人なのかが、ざっと分かるようになります!!
渋沢栄一がどんな人なのか、知りたい方におすすめの記事になります。
Twitterやインスタなどやっていますので、フォローよろしくね!!
Linktree
ボカロ曲も聞いてね〜!!
・ストリーミング配信
何した人なの?
早速ですが、一言でいうと、『渋沢栄一』は何をした人ですか?
『渋沢栄一』は、みずほ銀行や三菱UFJ銀行や三井住友銀行といった3大メガバンクを作った人であり、また保険分野では東京海上日動やニッセイ同和損害保険を作った、めちゃくちゃすごい人です!!
どれも、私でも聞いたことのある、超有名な企業ばかりですね!!
このため渋沢栄一は『近代日本経済の父』と呼ばれています。
このほか、渋沢栄一は約500企業の設立に関わり、約600の社会公共団体・教育機関の支援をしたり幅広い社会事業に貢献しました。
600!?
本当に、一人の人間がしたことなんですか?
すごすぎます!!
一方で、財閥を作ることはなく、こうしたことから社会に対して、利他的な人物であったと考えられています!!
財閥ってなんですか?
財閥とは、特定の一族や家族が支配する企業のことです!
経営が安定したり、ブランド力が高い一方で、競争が抑制されたり、政治との癒着がしやすくなる。という欠点があります。
渋沢栄一は、こう言った典型的な財閥を作ることはありませんでした!
要するに、自分の利益よりも、社会全体の発展を優先した人だったということですね!
メガバンクの設立に関わった上に、こうした人格者なら、お札の肖像に使われるのは納得の理由ですね!!
生い立ち
渋沢栄一は1840年に埼玉県の深谷市の農家の家に生まれました。
農家さんだったんですね。
てっきり、経済についての仕事をされている家族の間に、生まれた子なのかと思いました!!
実家の農家は販売業も営んでおり裕福な家に生まれた渋沢は、幼い頃から父親の一郎右衞門や栄一の従兄弟のもとに通わせて、四書五経などを習い学問の手解きなどもを受け、学問に励みながら成長します。
そうして商才を磨き成長していったのですね!!
さらに、20代になった渋沢は尊皇攘夷の考えを持つようになります。
尊王とは天皇を尊ぶ思想であり、攘夷とは外国人との貿易をやめて追い出そうとする思想のことです。
そしてこの思想によって、忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともにと運動を起こします。
この計画は残念ながら失敗してしまいますが、これをきっかけに徳川慶喜(一橋慶喜)に仕官するようになりました。
徳川家の最後の将軍ですね!!
27歳の頃、一橋家で力をつけた渋沢は慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れ、商法会所を設立し、政府の大蔵省に仕官します。
渋沢は、富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも、関わりました。
大蔵省は、現在の財務省のことだね!
その後、大蔵省を辞めた後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創立、企業の設立に関わりました。
また日本初の銀行創業にあたり、資本家の三井高福と小野善助が協力するように説得を試み、なんとか第一国立銀行(現在みずほ銀行)の設立に成功しました。
すごいですね。
隙あらば、有名企業を作っていきますね!笑
どんな性格の人だったの?
ここからはそんな実業家の渋沢栄一がどんな性格をしていた人なのかを探っていきたいと思います!!
よろしくお願いします!
ここまでは、渋沢栄一のすごいところばかり上げてきましたが、どんな性格の人だったのかを調べていったところ、彼はかなりの女好きであったということです。
二人の妻以外にも複数の妾がおり、かなりの女好きだったようです。
また、渋沢が最後に残した子は68歳の時に生まれています。
生命力に溢れた人だったのですね!
彼がその生涯で残した子供の数はを100人ほどではないか(認知していない子を含みます)、という側面もありました。
フランスへ学びに行ったときには、現地の女性を愛人にするなど呆れるほどの女好きで、20人もの子供がいたと言われています。
商才がなかったら大変なことになっていましたね。笑
面白エピソード
渋沢は論語を、実業を行う上での基盤としていました。
資本主義社会では出世や金儲けに傾倒しすぎる傾向になりがちですが、これを論語に裏打ちされた商業道徳で律する。 というのが彼の思想でした。
こうした考え方は『論語と算盤』にまとめられており現代でもビジネスマンに読み継がれていますよね!
ところで、上のトピックからもわかるように、渋沢はかなりの女好きであったことがわかります。
そんな渋沢の妻である、渋沢兼子はそんな彼を伴侶として支えるのですが、やはり思うところはあったようです。
「大人(渋沢栄一のこと)も論語とはうまいものを見つけなさった。あれが聖書なら絶対守れなかったろうに」
という言葉を残しています。
少しだけ論語の内容について解説すると、この渋沢が基本に据えていた論語には、性的な内容の道徳的な記述はなく、一方で聖書にはそうした記述がはっきりされているという違いがあったりします。笑
要するに、『論語を盾に遊びすぎでは?渋沢栄一さんよお〜。』と言いたかったのでしょうね。
まとめ
現在でも続いている、誰もが目にしたことのある大企業の、設立に多く関わっていた渋沢栄一ですが、女好きな側面や、人間らしいエピソードがたくさんありました。
そうですね!総じて人間としてとても面白い方だったのだろうなと感じます。
今後は、渋沢の肖像画を拝見する機会が多い人生を送れれば、嬉しく思います
ということで、本日の記事は以上になります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回もよろしくお願いします!!
各種SNS
Linktree
インスタ
X,Twitter
TikTok
Threads
YouTube
YouTubeサブ
ニコニコ動画
PeDeの日常ブログ
ホームページ
PeDe portfolio
note
PeDe|note